2008年、中国の四川大地震で、被害が大きかった地域の1つが臥龍という。周辺は野生のパンダが生息する数少ない地域の1つでもある。臥龍一帯は自然保護区として世界遺産に登録され、1000頭ほどまでに減ってしまったというパンダ(大熊猫)の保護・繁殖のため、パンダ保護研究センター(中国保護大熊猫研究中心)が建てられていた。当時の報道によると、四川大地震が起こった時、センターにあった飼育小屋32のうち、14棟が全壊、残りも大きな被害を受け、飼育員の方も亡くなった。86頭いたパンダの無事は確認されたが、ケガをしたパンダがいたという。

 臥龍には2003年に行ってみた。パンダの故郷は、真ん中に川が流れる谷になっていて、周囲は切り立った崖や山に囲まれている。大熊猫研究中心の入り口には、パンダの生態などについての説明板があったので、ここでちょっと勉強してから門をくぐると、パンダとの対面になる。

パンダの生態などについて解説している説明板がある
パンダの生態などについて解説している説明板がある
パンダ保護研究センター(中国保護大熊猫研究中心)の入り口にある
パンダ保護研究センター(中国保護大熊猫研究中心)の入り口にある

 広場といった感じのところに、いきなりパンダがいる。たぶん、成獣だろう。しかし、残念ながら日本でパンダを見たことがなかったので、目に入った瞬間「あれがパンダ?」と、思ってしまった。確かに、映像や写真などで見たのと同じ、白と黒の巨体、愛嬌(あいきょう)のある顔をしている。

広場といった感じのところに、いきなりパンダがいた
広場といった感じのところに、いきなりパンダがいた

 ちょうど、食事の時間だった。飼育員がリヤカーに竹を積んで運んできて広場に降ろすと、遠くの方にいたパンダたちも寄ってくる。食事の仕方は、なんともほほえましい。ラッコのようにあおむけに寝そべったり、ちょこんと座ったりして、竹を前脚で持って、器用に口に運ぶ。説明板によると、パンダの手のひらには第6の指といわれる肉球があり、そこに挟むようにして竹を持つという。主食の竹は何でもいいというわけではなく、食べる種類が決まっているそうで、施設の回りの集落ではえさになる竹を育てている。1日数十㌔の竹を食べても腸が短いので、ほとんど消化できないでそのまま排せつされてしまうという。それにしては、パンダは体が大きくなるが、限定された食料がパンダ減少の理由の1つにもなっている。何でも食べる人間とは違って、生きにくいようだ。

ちょうど、食事の時間だった
ちょうど、食事の時間だった
食事の仕方は、なんともほほえましい
食事の仕方は、なんともほほえましい
竹を前脚で持って、器用に口に運ぶ
竹を前脚で持って、器用に口に運ぶ

 広場の周りには飼育小屋であるパンダ舎が並んでいた。表札には、パンダの名前ともう1つの名前が掲げられている。そのパンダの里親の名前で、日本人と思われる名前も見える。飼育や管理などの費用を一定額負担することで、そのパンダの「親」になれる制度。センター内では、400元(約6000円=当時)で子どもパンダを抱いて写真を撮らせてくれた。これも、飼育費の財源の1つだというので妻が抱かせてもらったが、毛の手触りはとても柔らかかったという。

木につかまって立ち上がるパンダ
木につかまって立ち上がるパンダ
木登りを楽しんでいた
木登りを楽しんでいた
研究所の裏手には、子ども用の広場が広がっている
研究所の裏手には、子ども用の広場が広がっている

 センターでは繁殖で大きな成果を上げていた。研究所のようなところに入ってみると、生まれて間もないパンダが飼育器の中にいた。手のひらに乗るぐらいのサイズ。自力では歩けないのだろうが、それでもしっかりとパンダ色をしている。研究所の裏手には、子ども用の広場が広がっている。いろいろな遊具があり、そこで3、4歳ぐらいのパンダが遊んでいる。木登りで先を争ったり、滑り台のようなものに乗ったり、時にはけんかもするなど、人間の子どもと同じようだった。

生まれて間もないパンダが飼育器の中にいた
生まれて間もないパンダが飼育器の中にいた
小さくてまだ手の平に乗るぐらいのサイズだ
小さくてまだ手の平に乗るぐらいのサイズだ

 そこに暮らしていたパンダは地震後、同じ四川省の成都、雅安などの研究施設に移された。東京・上野動物園のリーリー、シンシンは雅安から来て5年になる。ともに2005年生まれ。あのとき、臥龍で会ったパンダたちの子どもだ。神戸の王子動物園のタンタンは東日本大震災前の2000年に臥龍から来ている。全体の80%が破壊されたセンターは、現在も復旧が続けられ、少しずつパンダたちが「里帰り」しているという。臥龍がパンダの故郷であることは、今も変わりはない。